◎悪い事をしておってもおかげは受けられる。けれども御神徳は受けられない。いよいよ自分というものを。「浅ましい自分」と言うものを、本気で見極めなければ駄目。
%1親先生の酒屋時代のめぐり作りの話
%W岡本駒之助手遅れの話。

JFK

昭和四十三年二月十四日 朝の御理解


X御理解第一節 「今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ。」
X御理解第二節 「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。


 「今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ」。朝、夕にこうして、ここで御理解を頂いているのは、言うなら、「天地の音だと思う」。お互いの心の開ける音である。自分の心の中に、音を立てて開けるもの、又、音を立てて崩れるもの、そういうものを自分の心にひき感じれるようにならなければ、私は誰でも御神徳を受ける事が出来るとおっしゃるけれども。

 そこを抜きにしては、誰でも御神徳を受けると言う事はない。御神徳を受けよう、あの世にも持って行けこの世にも残しておけれる。あの世、この世にも残しておける。残しておけるだけでない。自分自身も、いよいよ幸せになれる御神徳。それは誰しも受けられる。

 誰しも受けられるけれども、今、心の眼というか天地の開ける音を聞いて、目が覚めないなら。これは、いつ迄経っても、何十年経っても、おかげは受けられない。それでも、おかげが受けたい、受けたいと願うなら。願うから、神様はさまざまなあの手この手を持って、お気付けを下さる。

 それでもやはり気がつかん。心の眼が開かない。天地の開ける音を聞いて、目を覚まさない。目を覚まさな駄目。目を覚まさなければ、御神徳は受けられん。はあこれじゃ、おかげは受けられん。いや、「これでは御神徳は受けられん」と言うものを、自分の心に発見したならば、本気で、そこをを改まっていかなければ。

 昨日の御理解から、言うとですね。人の良いのと悪いのと。あの人は仏様のような人じゃ、神様のような人じゃと言うても。世間ではあのような良い人が、「どうしてあんな難儀をするだろうか、困った事になるのだろうか」と言うような事があろうが。「信心しておかげを受けるのは別もの」とおっしゃる。

 ですから、そういう、たとえて言うならば、御理解を頂いておっても、ひとつも聞いておるだけで。改まらなくても、たとえて極端に言うならば、悪い事をしておってもおかげは受けられる。それは別ものじゃから、おかげは。けれども御神徳は受けられんのですよ。誰でも受けられん≫。

 私は、今朝、御神前に出らせて頂きましたら、あの、今は、もうほとんどない様、あるでしょうか。「ラムネ」と言うのが、昔あった。今、「ラムネ」というのが売っているでしょうか。ラムネ瓶に入った分ですね。Z『上にレッテルの紙が、封印の代わりに貼ってある。この紙を、こう外しておるところを頂く。そして中の玉をポスンと落として、そして飲んでいる。そして「ベスッ」というて、気持の良かった』と言うような状態を頂くのです。

 いわゆる紙を外してという事は、信心を外してという事。日頃頂いとる教えなんか外してしもうとる。それでもやはり、「ベスッ」と言うくらいのおかげは受けられると言う事です。けれども、なあーも栄養にもならんです。紙を外して、玉を落として飲めばなるほど、「ベスッ」と言うぐらいはいいますよね。喉の渇きぐらいは止まりますよ。ね。けれどもラムネ飲んだから、「栄養になった」という事はないでしょう。

 そんな事を頂いてから、教典を開かして頂きましたら、「第一節、第二節」を頂くんですよね。お互いがですね。こうして朝、晩、お参りをさしてもらう、御理解を頂く。だから、そこんところをです。まあ、ここは悪か事と知っとりますばってん。どうぞ、神様お許し下さいと言えば、お許しくださる。

 %1例えば、どげな悪い事しょったって、この神様は、「罰を当てる」という事をなさらない神様ですから。だからと言うて、良い気になったんじゃ。いよいよ御神徳のごの字もないです。私は、そういう意味合いで、随分めぐりを作って来たと思うですね。根が酒屋でございますから。

 %1昔は、銘酒とか、中銘とか、≫銘とか。(ば)酒の安いのを買うといてから。ちょっとこう、扱うといてから、中銘ぐらいに売った。中銘を銘酒にするぐらいの技術があるのですよ。それを平気でやって、「これが銘酒でございます」と言うて、高々となるほど儲かった。ばってん、なあ-も残っとらんでしょうが。

 %1それは、私が一番良か手本です。そして神様にゃ一生懸命信心しよる。そんかわり儲かったら、神様にお供えする。これは、まあ、商売。これはしょうなかけん。「どうぞお許し下さい」と、神様は許してござったんです、やはり。

 %1けれども、徳にもなんにもなっとらん証拠には、何にも、それこそ、なあにもなかごとなってしもうたですから。儲かるはずですけど、何にも出来んようになったのですから。

 %1まあーだ、タチの悪いことがある。職業用語で申しますと、「水の事をあわ」と申します。酒屋は「水」とは言わん。水を入れたかとは言わん。あわを入れなければ売らない。まあ、極端な話ですけれどもね。「今度の酒は悪かったよ」「そうですか、そりゃどうも済みませんでした。そしたら、今度はよか酒を念入れて持って行きましょう。」同じもん持って行きよる。人間は神経。「今度とは良かった」「ほんにお客さんは馬鹿じゃある」と思いよる。

 %1もう、こげな悪い事を平気でやってのかして。もう本当に信心しょってね。本当に、人が十銭で売るものは、八銭で売れ、目先は二銭損のようじゃけれども、おかげが受けられると言うのは。そうすれば、必ず徳が受けられる。特におかげが付いて来るんだ。目先は損のようでも得しちゃる。これは商売の事だけじゃありませんよ。なる程、紙を外して信心しょっても、その神を外しておる。

 %1けれども、「ベスッ」と言うくらいのおかげは儲かりよる。「あゝ、良かった」と思いよる。けれども締め括って見ると、十年、二十年経ってみて、はあ、儲かった、儲かったと思いよるごたるけれども。

 %1 なあーに、それこそあわばっかり入れとるもんじゃから、あわのごと消えてしもうとる。そういう事で、例えば、幸せになろうなどと言うような浅い考えを、本気で捨て切ってですね。「今、天地の開ける音を聞いて、どうして目を覚ましておらなかっただろうか」と後悔しても遅かです。

 %W昨夜も、久富先生と繁雄さんと勇さん三人で、まあ、遅くまで話した中に、二代金光様の時代に、「岡本駒之助」という方があった。この人は、「中村駒之助」という東京歌舞伎役者じゃった。熱心な信心をしておかげを受けて、もう≪四神様≫の影の形のように付き添うて、御本部へ移ってみえられました。役者を止められた。非常にお徳をうけられた。もう、それこそ、大変な御寵愛だったそうです、四神様が。

 %Wところで、四神様が亡くなられた。ある時、桂先生が御本部参拝されて、岡本駒之助さんの所の前を通られたら、神様から、「岡本駒之助徳切れ」という事を頂かれた。それで大変と思われて寄られ、もう大変な贅を尽くした家に住んでおられた。それこそ漆壇の茶箪笥を後ろに、黒壇の茶分台の前に座って玉露のお茶をすりながら、それこそ結構けだらけの生活をしてござった。

 %Wそこで極力、桂先生が、「岡本さん、あんたは、四神様のおかげを頂いて、こういうおかげを頂いたんだから、あなたは四神様の御心に対してからでも、まちっとおかげ頂かなさらないかんですよ。お道の教師にでもなんなさい」と言うて、大変勧められた。けれども、それを聞こうとされなかった。もう当時、三代様であった。

 %W三代様に、「金光様、世の中には、後から山津波がこう押しかけてきよる。それを知らんでおる氏子がおりますなあ」と申し上げたら、「あゝ、あの氏子か、あの氏子はもうつまらん」とおっしゃったそうです。

 %Wそれこそ、それ迄には、どの位お気付けを頂いたかわからんのです。最後に、桂先生を通して進言されましたけれども、それを聞こうとされなかった。随分、金光様もお取次の上に、その方の事を願われたに違いないです。けれども、もういよいよいかん。もう、あの氏子はつまらんとおっしゃった。岡本駒之助と名前も言わん先に、そうおっしゃった。

 %Wそれから、まもなく東京に沢山の貯金をしてあった。その銀行が倒れた。それから、あわてられてから。桂先生から、あゝ言われとったからと言うて、釜山に布教される様に手配をされた。朝鮮の釜山にですね。ところが、もうその時には、どっこい、身体の方がいうことをきかなかった。そういう話が残っとりますよね。

 ほんとに、心の目を開かにゃいかんと思うね。お互いね。それこそたとえば、泥棒でもですよね、お願いすれば、おかげの頂けれる道なんですよ。金光様の御信心というのは。また、詫びればですね。それを責めなさるような事は絶対ないですよ。

 %1こげんして、神様水ば入れよりますけん。どうぞ、よろしくお願いします。あわばこがしこ使いよりますけんで、どうぞよろしゅう。儲かったらお供えしますけんで。そういう生活を何十年間して来とる。そして、次々と大きなショックを受ける様な事が起こって、初めて目が覚めた。

 ここで私が、こうやって一番良い見本だから。そういう痛い思いをしてから、目が覚めるのではでけん。お互いこれだけ徹底してから、教導を受けているのだから。お互い本気で、こりゃ私が、お互いめいめいに考えてみなければいけませんよ。「人の良いのと、悪いのとは別もの」とおっしゃるように、おかげは別ものなんです。 やはり、おかげは受けてもです。それこれ大きな津波が押しかけてきょったっちゃ、分からない様にです。

 いうなら、赤が赤と見えてこない。白が白と見えない。赤が白に見える様になったんじゃ。もう、いよいよ、その人の心はおかしいんですよ。どうぞ、ひとつここんところをですね。身を修めさせて頂いて、誰でも受けられると言う神徳をですね、受けて。あの世にも持っていけ、この世にも残しておけ。

 同時に、現実に於ても、有難いおかげを頂かしてもらい得る教えを、日々頂いておるのですから。おかげを頂かせてもらわねばいけません。いや、只、おかげだけなら悪人でも受けられる。だから、本気でそこんところに気付かせてもらって、天地の開ける音を聞いて、目を覚ましてもろうて。改まった生活にならしてもらわなけば、ほんとの神徳にも触れる事は出来ません。

 「今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ」。「先の世までも持っていかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すればだれでも受けることができる。みてるということがない」。もう限りなく、みてるということがない御神徳を。御神徳を頂いて行く楽しみ。

 %1めぐりを作っていく。悪には悪の楽しみがあるのです。やはり。例えば、スリなんかする人はですね。もうとにかく、「スル時のスリル」とでも言うかね。もうびくびくする。それが楽しゅうして、こたえんそうです。ガタガタ震うごと嬉しいそうです。恐いけん震えるのじゃなか。嬉しか。だから悪には悪の楽しみがある。

 %1そこんところをです。〈そうすればよか〉と思いよった。水はタダでしょうが。あの時分、お酒がたとえ一円でやったって、一升売れば一円儲かる。もう、タダで泥棒と同じこと。こりゃ一カ所に五升ずつぐらい入れるから、五円ぐらいころっと儲かる。そういう事をしておって、それでほんとのおかげの受けられるはずは絶対ないです。

 ほんとに、信心してお徳を積んでいく楽しみに切り替えるというと、皆さんが悪い事ばっかりしよるごたるが。そういう訳ではないが、本当に御理解を聞いて、今、天地のひらける音を聞いて、目を覚まさしてもらうためには。いよいよ自分というものをです。「浅ましい自分」と言うものを、本気で見極めなければ駄目ですよ。

 紙を外して、ポスンと玉を落として胸がベスッと言うくらいのおかげは受けられるけれども。これじゃ、栄養にも何にもならんと言う事。だあれも知らんと思うとるけど、神様が見通しですから。それでも、お前が    おかげをやらんとおっしゃらんのが、金光教の神様です。参りゃ願ってくりゃ、おかげは下さる。けれども、それでは、いわゆるお徳に触れる事が出来んのです。どうぞ。